特選 アニメ用筆(伝統的工芸品認定筆)とはどのような筆なのか、何が描けるのかといったことを開発の経緯と共に書き記す。
(執筆:國政)
注:この記事を執筆しているのは、アニメ用筆開発に当たった西田(前社長、故人)を引き継いだ私(國政、現工場長)が当時の開発資料や書籍を元に書いているが、西田から開発の経緯などを詳しく教えてもらっていないため、一部憶測などが含まれていることにご注意いただきたい。
2002年4月、広島県安芸郡熊野町にある筆の里工房にて、ジブリで美術監督をされていた男鹿和雄さんの画集「第二楽章-ヒロシマの風」の原画展を開催したときから話は始まる。
男鹿さんがその原画展を訪れた際、日本の筆製造シェア8割を占める熊野で新しい削用筆を開発してほしいとの提案があった。
そこで、当時から日本画の筆を製造していた当社(後述)に連絡があり開発がスタートした。
では、なぜ新しい削用筆の開発を依頼することになったのか?
男鹿さんによると、1990年までは当時使用していた削用筆が粗い使い方をしても半月程度もっていたものが、1992年以降急激に品質が悪化し、数日使っただけで使い物にならなくなってしまうようになったらしい。
その後10年、あの手この手で質の良い削用筆を探しておられたが見つからなかったようである。
(このあたりの話は、「男鹿和雄画集II」138-139ページに詳しく記載されている。)
そして2002年4月、筆の里工房にてご自身の原画展にお越しになられたとき、工房にて現状を相談したところ当社が開発をすることとなったのである。
■開発の推移
この開発には男鹿和雄さんと田中直哉さんが大きくかかわっている。
2002年4月のご依頼から数か月後、試作用の削用筆が完成した。
しかしながら筆の質的には悪くないものの、男鹿さん田中さんの理想とするものからは程遠かったらしい。
そしてさらに半年以上が経過し、ようやくかつて男鹿さんが使っていた削用筆に近い状態のものが出来た。
当時は「特選 アニメ用筆(削用)」「特選 アニメ用筆 霞」の名称ではなく、「特選 削用」「かすみ」という名称であった。
2004年、ハウルの動く城の背景美術の一部を男鹿さんが担当しておられるが、その際にテスト的に使用されていたのではなかろうか。
しかし、この時の筆もまだ満足がいくものではなかった。
さらに半年をかけ、ようやく実用に耐えうる削用筆が完成した。
この時点で2005年と、すでに3年近く経過している。
「男鹿和雄画集II」の初版が2005年9月30日となっており、その中に当社の「特選 削用」「かすみ」が登場している。
しかし、開発はここで終わらなかったのである。
画集の139ページ最後にこう書き記されている。「現在、スタジオジブリでは、この削用筆を実作業の中でも使用している。そして、理想の筆づくりは今も続けられている」と。
事実、男鹿さんは1995年にジブリを退社しフリーランスとなった後もジブリ作品に携われているが、2008年「崖の上のポニョ」2010年「借りぐらしのアリエッティ」など数々のジブリ作品に当社筆をご利用いただくなかで、少しずつ改良がおこなわれ続けた。
そして、2013年「かぐや姫の物語」で、ようやく現在の「特選 アニメ用筆(削用)」「特選 アニメ用筆 霞」が姿を現したのである。
「男鹿和雄画集II」の139ページに、男鹿さんと田中さんが描いた理想の削用筆の形の図面が載っているのでご興味がある方はご一読されたし。
■特選 アニメ用筆(削用)とは


ここまでの経緯を見てお気づきになった方も居られるかもしれない。
特選 アニメ用筆(削用)について、他の削用筆と大きく違う点を2点説明する。
1点目、「特選 アニメ用筆(削用)」は、ジブリの世界観を表現するために開発された超特化型の筆である。
当社が製造している削用筆の内、当オンラインショップでも販売している削用筆のサイズ比較写真をご覧いただきたい。
「特製 削用」「削用筆 梢」この二種類が、日本画で一般的に使われる穂先のサイズである。
それに対し、「特選 アニメ用筆(削用)」は非常に穂先が太い。
これは、ジブリ作品の背景画のなかで特に丸みを帯びた柔らかな表現を描きやすくするために特化した構造である。
また、ポスターカラーの濃度や穂先の絵具だけを少し拭き取ることで細い線ももちろん描けるようになっている。
さらに、穂先を平たくつぶしたときに穂先がギザギザにならず綺麗に揃うことから、2~4mm程度の幅で綺麗に長方形や幅広の線が引けるようになっている。そのため、筆を立てたまま使っても窓が描ける。
ただ、一般的な削用筆と比べるとかなり穂先の毛量が多いことから、余程穂先を作る力が無ければ、またはこの筆の使い方に精通していなければ、使いにくいかもしれない。
そこで2点目。これがとても重要であり、しかしあまり知られていないかもしれない。
削用筆ばかり注目されがちなのだが、上記では何度も登場した「特選 アニメ用筆 霞」(旧かすみ)の存在である。
そう、「特選 アニメ用筆(削用)」それ単体で背景を描いているわけではないということなのだ。
「男鹿和雄画集II」にも少しだけ筆を使用している写真が載っているのだが、細い線や細部の書き込みには「かすみ」が使用されている。
この「かすみ」という筆も、削用と同時に開発された筆であり、イタチ毛を中心に作られた線描き特化型の筆である。
この2点が合わさって初めて本領を発揮するということは、あまり知られていないのかもしれない。
もしお手元にこの画集をお持ちなら、42ページを見ていただきたい。「背景美術で使われる筆は大きく分けて、削用筆、かすみ筆、平筆の3種がある」と記載されている。
かすみ大事
実際ご注文を頂く時は、この二つの筆を同時に100本ずつなど纏めてご注文いただいていたのである。
■特選 アニメ用筆シリーズの現在
開発から3年後に試作筆が完成し、そこからジブリ作品が作られるたびに大量のご注文をいただいていた。
当時はそれで良かったのであるが、2014年衝撃的な出来事が起きた。
そう、スタジオジブリの製作部門が解散したのである。
当社は、受託製造特化型の筆製造会社(後述)であるため自社ブランド筆をそもそも作ることが無く、直売ルート(販売店など)は持っていない。
そのため一時は「アニメ用筆」の注文が激減し、試行錯誤したようである。
男鹿和雄さんはもちろんのこと、山本二三さんにも手紙を書いた形跡が残っていた。
ジブリには複数の美術監督が居られたが、実際には共通のジブリという方向性がありながらもそれぞれ別のアプローチで背景画を製作されていた。
ジブリ特化型の筆とはいえ、全員が当社筆を使用していたわけではなかったのではなかろうか。
そのため、良い返事はもらえなかったようである。
そんな中、アニメ用筆を使用していた当時のジブリスタッフが退職したのち、別のスタジオに入ったり、新しくスタジオが立ち始めた。
そこから、ダイレクトに注文を頂くようになり現在に至っている。
最近では、スタジオポノック2017年「メアリと魔女の花」や2023年「屋根裏のラジャー」、スタジオ青写真代表で美術監督でもある金子雄司さんの2021年「王様ランキング」など、ジブリの魂を引き継いだ(と言ってよいかどうかはわからないが)スタジオや柔らかな表現を多用されるアニメにおいて、今でも使い続けられている。
他にも、当時のジブリスタッフで別のスタジオへ移動された方から直接ご購入いただいている。(CGメインであるのに、一部を手描きにしているところなど様々)
また、SUNRISE Arte(サンライズアルテ) が開校したサンライズ美術塾においても、他社様削用筆と共に当社アニメ用筆をご利用いただいている。
なお、当社「特製 削用」(日本画用の削用筆)も、幾つかのスタジオにてお使いいただいている
■特選 アニメ用筆(削用)が使いにくいと噂される理由
これについては、前述でも上げたように、元々「特選 アニメ用筆(削用)」だけで使うものではない筆だとお伝えした。
しかし、当社は直売ルートなどが無くエンドユーザと直接情報を交換することが不得意である。
そのため、正しい使い方などを伝達する術がなかった。
もちろんウェブを通じて公表していくことが出来たのであるが、そこに時間をかける余裕や知識も足りていなかった。
そのため、その噂だけが独り歩きをし、熊野町内の様々な筆会社からそんな噂を聞いたと私に伝えられた。
どこからそんな噂が出てきたのか知る由は無いが、おそらく「特選 アニメ用筆」の使い方というのを様々な現場で上手く伝えられることがなく、削用筆だけで対応しようとしていたのではないかと推測する。
これについては、当社ウェブサイトでも正しく告知していなかったのが大いに原因だと思われ、反省点の一つである。
そのうち、このあたりのことを当サイトでも修正していくこととする。(まだ出来ていない)
■アニメ用筆 削用シリーズの拡充
「特選 アニメ用筆(削用)」「特選 アニメ用筆 霞」この二本が当社アニメ用筆シリーズの原点であるが、この二本は非常に多くのイタチ毛を使用しており、開発当初ですら結構な価格だった。現在、イタチ毛の高騰などにより当時の1.5倍にまで価格が上がっている。
そのため、この筆を全く使ったことのない人には非常に導入しにくい筆となってしまった。
そこで、このたび「特製 アニメ用筆 円」及び「アニメ用筆 削用 梢」の開発に着手した。
当社は受託製造型の筆屋であり、お客様の書き味のご要望に応じて筆を開発する。
しかし、この新しいアニメ用削用筆は、お客様からのご要望ではなく当社の思想で開発したため本当の意味での自社ブランド筆と言える。
先ほどの削用筆(霞含む)穂先のサイズ比較をもう一度ご覧いただくと分かる通り、穂先のサイズは次の順で細くなっていく。
「特選 アニメ用筆 削用」> 「アニメ用筆 削用 梢」>「特製 アニメ用筆 円」≒「特製 削用 大」>「削用筆 奏 大」

「特製 アニメ用筆 円」
この筆は、穂先が細く仕立ててあり、今アニメ背景画で一般的に使用されている削用筆(当社の筆ではない)に近い形だと言える。
また、細いにもかかわらず、イタチ毛を多く使用していることからコシが強く、細部が書き込みやすい形になっている。
ただし、穂先を平たく潰したときの形は毛量の少なさからややギザギザになってしまう。
窓を描く場合などは、筆を横に寝かせて描くなどのテクニックが必要になる。(「アニメ用筆 今日も窓」と同時に導入するのが良いと思われる)
「アニメ用筆 削用 梢」
この筆は、「特選 アニメ用筆 削用」よりもやや穂先が細く少しだけ長くなっている。
そのため「特選」よりも扱いやすく、かつ平たく穂先を潰したときに穂先の毛が揃いやすくしている。
また、イタチ毛のほかにマスクラット(イタチ毛より安くコシが強い毛)の毛を混ぜることで価格を抑えている。
「霞」を導入しなくてもある程度描ける用に開発した筆である。
ただ、穂先の纏まり感は「特選 アニメ用筆 削用」には及ばず、また「霞」ほど細い線が描きやすいわけではないので、位置づけとしては練習用の筆としての利用を想定している。
■松月堂とは
当社は、日本で作られる筆の約8割を製造する広島の熊野町にあり、伝統的工芸品熊野筆を製造する会社である。
熊野筆の中でも日本画・水墨画のほか、友禅染などで使用されるすり込み刷毛、差し刷毛などの筆や刷毛を中心に製造する。(書筆も作っている)
製造量は、筆・刷毛合わせて年間20万本程度、うち年間12~15万本を出荷している。
しかし、当社名は筆を使用されているユーザ様に全く知られていない。
なぜか?
当社は、受託製造特化型の製造会社であり、自社名で筆を出荷することが無い。
製造筆の99%が無銘筆(卸先の筆問屋や販売店が自ら自社ブランド名を彫る)として出荷しており、自社名はもちろん熊野筆としてすら出荷していない。
過去にかなり強引ではあるが計算をしたところ、日本画・水墨画筆の約30%を当社が作っている量であった。
ようするに3本に1本は、当社が製造した筆ということになる。
そのため、皆さんが知らない間に当社の筆を使っていたということが起きる。
しかし、当社の名前は誰も知らない。
■参考資料
ここで何度も登場している男鹿和雄さんの画集「男鹿和雄画集II」に、開発の経緯など色々と記載されており、それを参考に執筆している。
この画集であるが、昨今アニメ背景画の画集が沢山あり、私自身はアニメ背景を描くことも出来ないため、どのように違うのか、何が良いのかということはわからない。
ただ、この画集「男鹿和雄画集II」をみて私が思うことは、この画集に取り上げられている背景画は確かに特選 アニメ用筆 削用と霞があれば描けることを強くイメージさせる画集になっていると思う。
かすみ大事
★もう一つの参考資料
私(國政)は、アニメ用筆開発の際に松月堂にはおらず、さらに言うと西田(当時の当社社長、故人)からほとんど内容を引き継げないまま松月堂を率いる立場となった。
そのため、当時の開発の経緯などは、西田が残した開発ノートを見て知った。
アニメ用筆について、大変細かい改良点を頂き、何度も何度も修正を重ねていった経緯を開発ノートから読み取れた。
西田は、毎回試作の筆の形を絵に描き、穂首のどの位置をどう修正したらよいか、全て記録していた。
その数、何十回、通常の筆の開発では考えられない数の修正を重ねていた。
■おわり
とりあえず、ここまで!
非常に長文をここまで読んでいただき本当にありがとうございます!
そのうち思いついたことや修正点があれば、随時加筆修正していく。
文面、言葉遣いが変なのはご容赦ください!